越境未来ラボは、境界を越えて未来を観察するメールマガジンです。未来に関心を持ち、日常から一歩外に踏み出したい人に向けて発信しています。テクノロジーから文化まで、多様な視点を毎週金曜日にお届けします。
🌍 近況
📚 今週の一冊
🍄 サイケデリック医療最前線
🔬 未来の実験室
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🌍 近況
世界各地を移動しながら暮らすなかでの出来事や気づきをお届けします。
今週は、東京にいます。
約3ヶ月ぶりの東京は、クアラルンプールに比べても蒸し暑く、日中は外にいるには危険な暑さが続きます。そんな猛暑から逃れるように、涼しい寄席に足を向けました。屋外の夏フェスも良いですが、こういう時こそ落語やお笑いといった屋内エンターテイメントの真価が発揮されるのかもしれません。運よく、落語の鑑賞チケットを譲り受けたので、久しぶりに落語を観に行くことにしたのです。
落語は、江戸時代から続く日本の伝統芸能で、大衆芸能の中でも、きわめて「声」と「間」だけで世界を立ち上げる、非常に特異な表現形式です。江戸時代を舞台とした人情噺・芝居噺・怪談噺が中心で、落ち(サゲ)を持つ「落とし噺」のことを指します。道具は扇子と手拭い、舞台装置は座布団一枚。その極度に削ぎ落とされた制約の中で、想像力が無限に広がっていく、いわば、観客の頭の中に「舞台」を立ち上げる芸なのです。
そんな落語には、「まくら」と呼ばれる技法があります。これは落語におけるいわば、「イントロ」であり、観客とのチューニングを合わせる重要なフェーズです。世間話や小噺を通じて観客との距離を縮め、呼吸を揃える役割を果たしています。枕の中にすでに本編のテーマを忍ばせたり、あるいは、まくらでの観客の反応やその場の空気感を見ながら演目を決めるなど、落語における物語と現実を結びつける「あいだ」の役割も果たします。上手い噺家ほど、すーっと吸い込まれるようにまくらを通じて物語の江戸の世界へといざない、それは、まさに話芸の神髄です。
この「観客との関係性を操る技法」は何も落語に限った話ではありません。演劇や映画の世界では、舞台と観客を隔てている見えない境界線を「第四の壁」と呼びます。通常、俳優は観客がいないかのように振る舞いますが、時として意図的にこの壁を破り、観客に直接語りかけることがあります。すると観客は一気に「演劇を見ている」自分を意識させられ、作品世界から現実へと引き戻されるのです。
例えば、ゴダールの『勝手にしやがれ』でベルモンドが突然カメラ目線になる瞬間や、ウディ・アレンが観客に向かって直接話しかける場面、近年では「ハウス・オブ・カード」でケヴィン・スペイシーが政治の舞台裏を観客にだけ打ち明ける独白、「デッドプール」の観客いじりなどがこれにあたります。
このように、時代ごとに「観客との関係を操作する装置」は形を変えて現れているのです。
そして近年になると、ニコニコ動画のコメント機能、Twitterの実況、TikTokの二次創作など、視聴者は「共創者」へと変貌を遂げていますが、私たちが目にする多くのYouTubeは基本的に「完成品の配信」と言わざるを得ません。いわば、編集され、パッケージ化されたコンテンツを視聴者が受け取る、映画やテレビと本質的には変わらない一方向的な関係なのです。
そこで注目に値するのが、アメリカのYouTuberのRyan Trahanが2025年夏に行った「I Visited 50 States in 50 Days(アメリカ50州を50日間で回る)」というシリーズです。彼は1セントだけでアメリカを横断する現代版わらしべ長者をはじめとするシリーズものの動画を得意としており、最近は視聴者を巻き込んで寄付を集めることに成功しています。
セントジュード小児研究病院への募金を募った今回のこの企画では、5万ドル以上の寄付があるたびに「Wheel of Doom(運命の輪)」を回し、「スマホなしで次の州へ」といったルールを自らに課すなど視聴者を巻き込んで50日間連続で動画が投稿されました。視聴者の寄付が即座に物語展開に影響し、毎日のアップロードで「今日は何が起こるか分からない」リアルタイム性を生み出したのです。
これはYouTubeというプラットフォームで、落語の「まくら」のような「その場の空気感」を表現し、「あいだ」を使って彼の冒険の物語への没入感を演出した面白い試みのように僕には映りました。寄席の観客が一席の中で落語家と呼吸を合わせるように、視聴者は50日間という長期スパンで物語と共に呼吸していく。落語家が世間話で現実から物語への自然な導入を作るように、Trahanは日常から「冒険物語」への没入を演出したのです。
時代を超えて変わらないのは、この「あいだ」の重要性のように思えます。
それは、現実と物語の境界をいかに自然に越えさせるか。落語家の「まくら」、映画監督の「第四の壁破り」、YouTuberのコミュニティ形成。どれも、観客が気づかないうちに「物語への没入」を促す技術なのです。
Ryan Trahanの成功は、江戸時代の落語家が一席で完結させていた「現実→物語」の導入を、50日間というデジタル時代の時間軸で実現したことにあります。当初の目標100万ドルを大幅に超えて1158万ドルを調達できたのも、この現代版「まくら」の効果だったのでしょう。
東京の猛暑の中で体験した落語の静寂と、デジタル空間の賑やかなコミュニケーション。一見対極にあるこれらが、実は同じ「人と人とのつながりを生み出す魔法」という本質を共有していることを発見できたのは、暑さから逃れた涼しい寄席での、思いがけない収穫でした。
📚 今週の一冊
未来を見通すために欠かせない、新しい視点を与えてくれる本を紹介します。
成功するための法則とは一体なんでしょうか。
それは、ズバリ、失敗を重ねることにあると筆者は言います。
私たちが今享受している便利な生活や技術の数々。その背後には、先人たちが積み重ねた膨大な失敗の歴史があります。失敗という名の「実験データ」こそが、今日の繁栄の礎となっているのです。
ところが、多くの人は失敗を避けようとします。それは僕も例外ではありません。完璧を目指し、リスクを取らず、安全な道ばかり選ぼうとする。しかし、それこそが最大の失敗への道なのでしょう。
僕が勤めていた前職のとある上司は新しいプロジェクトを立ち上げるにあたり「成功の数ではなく、失敗の数をKPIにした」と言っていました。なぜなら、そうでもしないと、挑戦をしないから。一見すると狂気の沙汰に思えるこの発想こそが、実は成功への最短ルートなのです。
行動を変容するためには、結局のところ、自分の脳をどのようにコントロールするかにつきます。固定マインドセットから成長マインドセットへ。「才能は生まれつき決まっている」という思い込みから「能力は努力によって伸ばせる」という信念へ。この転換なくして、真の成長はありえません。
筆者は本書の中で、日本でイノベーションが起きないのは失敗を恐れる文化だと指摘します。確かに私たちの社会では、失敗は基本的に自分だけでなく家族にとっても恥とされがちです。ビジネスが失敗すれば厳しく責任を追及され、子どもたちは「間違えたら恥ずかしい」と思い込んで教室で手を挙げることができない。
しかし、この文化的な制約を乗り越えた時、私たちは真の力を発揮できると筆者は主張します。
本書では、医療現場での例が度々取り上げられます。ミスを隠蔽する文化の病院では、実際により多くの医療過誤が発生していた一方、失敗を報告しやすい環境を作った病院では、報告数は多いものの実際のミスは減少していました。つまり、失敗を恐れて隠すことこそが、より大きな失敗を招くという皮肉な現実があるのです。
では、どうすれば失敗を味方につけられるのでしょうか。
まず必要なのは、完璧主義の罠から抜け出すことです。机上でひたすら考え抜けば最適解を得られるという幻想を捨て、実際の世界で仮説をテストする勇気を持つこと。失敗への恐怖から閉ざされた空間の中で行動を繰り返す「クローズド・ループ現象」から脱却することです。
そして、Grit(やり抜く力)も欠かせません。失敗から学ぶには時間がかかります。一度や二度の挫折で諦めていては、失敗の価値を享受することはできません。時には、合理的にあきらめる判断を下すことも必要です。自分にはこの問題の解決に必要なスキルが足りない、と。
まさにこの二つを今週のSpaceXのStarship発射実験からも垣間見ることができます。
失敗し続けることこそ、成功の本質なのです。
私たちは失敗に対する考え方を根本から変える必要があるように思います。失敗は恥ずかしいものでも汚らわしいものでもなく、学習の支えになるもの。実験をする者、根気強くやり遂げようとする者、勇敢に批判を受け止めようとする者を賞賛するべきなのです。
「正解」を出した者だけを褒めていたら、「一度も失敗せずに成功を手に入れることができる」という間違った認識を植え付けかねません。しかし現実の世界では、そんな魔法は存在しないのです。
「失敗の科学」は、失敗という不可避の現実と正面から向き合い、それを最大の武器に変える方法を教えてくれます。
失敗を恐れて何もしないより、失敗から学んで前進する。
その姿勢こそが、複雑な現代社会を生き抜く最強の戦略なのだと思います。
🍄 サイケデリック医療最前線
サイケデリック医療の最前線を体系的に解説するシリーズです。
第1回 なぜいま、サイケデリックなのか
この連載を通じて、皆さんと一緒にサイケデリック医療の可能性を探り、日本における適切な社会実装に向けた議論の土台を作りたいと考えています。海外では既に医療として認められ始めているこの分野について、日本でも正しい理解を深め、必要な人に適切な治療が届く未来を共に描いていきましょう。
サイケデリックと聞くと、どのようなイメージがあるでしょうか。日本では、「幻覚剤」や「精神展開剤」という名前で呼ばれることもありますが、総じて、メディアの報道と長年の教育により「違法で危険」な印象がつきまとっているのが現状です。サイケデリックアートやサイケデリック音楽といったカルチャーの文脈では、親しまれているかもしれません。
遡ること約1年前。僕は、バンコクの街中で大麻グミを食べた後に、友人とカフェで話をしていました。しばらくすると、頭がくらくらしてきて視界が歪み始め、強烈な吐き気に襲われたのです。僕たちは場所を移動して、駅のプラットフォームで電車を待っており、吐きたいけど、吐けない状況。勇気を振り絞って、隅の方に向かい、吐こうとすると、何も出ませんでした。
なんだか不思議な体験でした。「恥ずかしい」という感情が、自分が勝手に作り上げていた幻想だったのだと気がついたのです。それは僕にとって、「エゴの溶解」とでも言える体験で、実際に後々調べてみたり、他の人に話を聞いたりしてみると、アヤワスカを体験した人たちの気づきと、いくつかの共通点があることがわかりました。
ひょっとして、僕が体験したのは「サイケデリック的」体験なのでは? 僕はその後、サイケデリックについて少し調べてみたあと、再び大麻グミを摂取してみたのです。効果は、これまでにない感じで、なんともいえぬ幸福感に包まれました。
もちろん、振り返れば、これは厳密な意味でのサイケデリック療法ではありません。しかし、ここで重要なのは、この経験が「サイケデリック・ルネサンス」と呼ばれる新しい医療の世界へ、僕を導いたことでしょう。
思えば、僕の周りには、虐待を受けた友人や複雑な家庭環境で傷ついた友人、自殺した親族がいます。このような状況に対し、自らの無力さを痛感し続けていた僕にとって、この新しい道は必然だったのかもしれません。自身も新卒で入社した直後に適応障害を発症し、会社をしばらく休んだ経験があります。
それでもって、大学で心理学を学び、新卒で入った会社は製薬業界。なんだか、すべてが布石のように思えます。
こうして、僕のサイケデリックの学びが始まりました。僕が参加したのは、オレゴン州認定のサイケデリックファシリテータープログラム。数百時間にも渡るオンライン授業やグループワークで幅広い観点からサイケデリックについて学びました。
そこには精神科医や教師、ミュージシャンや弁護士、エンジニアまで、多様な背景を持つ人々が集まっていました。プログラム参加者の共通点はひとつ。それぞれ、みな、人生の岐路でサイケデリックに出会い、深い変容を経験したことです。合理性と直感、科学と神秘など、普段なら対立しがちな要素が、サイケデリックの世界では奇妙に調和していました。
注目すべきは、これは決して僕を含む一部の人間だけの物語ではない、という点です。
現代社会は、メンタルヘルス危機に直面しています。WHOの最新データによれば、世界でうつ病に苦しむ人は約2億6400万人。日本でも20年で患者数が2.5倍に増えています。
しかも、そのうち、抗うつ薬は3分の1の患者に効果を示さず、「治療抵抗性うつ病」と呼ばれる人々が長期的な苦痛を抱え続けています。加えて、COVID-19パンデミック以降、その状況はさらに悪化し、特に若年層の自殺率は他の先進国と比較して突出しています。
そんな中で注目されているのが、サイケデリック医療です。
これは単なる新薬の登場ではなく、意識や脳の働き方、治癒のプロセスそのものに関するパラダイムシフトなのです。僕の個人的な経験で言えば、シロシビンの摂取によって、これまでの価値観がガラリと音を立てて変容しました。他人や社会と比較することをやめ、本当の意味で、自分と向き合うことができるようになったのです。
世界的なこの新たな流れを象徴する出来事が2020年のオレゴン州での住民投票でした。法案109号の可決により、世界で初めて州レベルでサイケデリック療法が合法化されたのです。得票率56%という結果は、半世紀以上「危険な薬物」として扱われてきたものを、医療として見直そうとする社会の意思でした。もちろん、裏には、30年以上地道に研究を続けてきた人々の努力があったことを忘れてはいけません。
ジョンズ・ホプキンス大学やインペリアル・カレッジ・ロンドンといった研究機関が臨床試験を重ね、MDMAによるPTSD治療、シロシビンによるうつ病治療で劇的な改善を示す結果を出しています。従来の治療法で改善が見られなかった患者の約70%が著しい回復を見せ、その効果が半年以上持続することも確認されています。
さらに注目すべきは資金の流れです。製薬会社ではなく、フィランソロピストたちが巨額の研究資金を提供しています。ニューヨーク・メッツのオーナー夫妻による6000万ドル、ピーター・ティールやティム・フェリスらによる1700万ドル。利益追求を超えて、真に患者のための医療を実現しようとする流れが生まれています。
この動きは医療の枠を超え、社会全体にも影響を与えています。実際にイーロン・マスクに代表されるように、シリコンバレーでは「マイクロドージング(知覚に影響しない少量の摂取のこと)」が広がり、アートや音楽の世界では新しい表現が芽吹き、人々の意識が変わり始めています。いくつかの研究では、たった一度のシロシビン体験が環境への関心や利他的行動を長期間にわたり高めることが示されています。
では、なぜ21世紀のいま、この動きが起きているのでしょうか。
改めて、いくつかの視点から考えてみたいと思います。
第一に、デジタル社会による孤独と疎外感があるでしょう。現代に生きる私たちは、SNSやスマートフォンに囲まれる生活を余儀なくされ、多くの人が深いつながりを失い、意味ある体験を求めています。現代人は常に「つながっている」にもかかわらず、深い孤独感や空虚感を抱えており、これが心の健康に深刻な影響を与えています。
特に、デジタルネイティブ世代ほど、バーチャルなつながりの限界を痛感し、現実の身体感覚や直接的な体験への渇望を抱いています。サイケデリックは、この分離感を溶かし、自己と他者、自然との深い結びつきを体験させる可能性を秘めています。
また、既存の社会システムの限界も挙げられるでしょう。気候変動、経済格差、政治的分断。従来の枠組みでは解決できない課題が山積し、新しい意識状態や視点が求められており、それは日本も例外ではありません。資本主義的競争原理や個人主義的価値観だけでは、地球規模の問題に対処することは困難になっています。
そこでサイケデリック体験がもたらす万物との一体感や全体性への洞察は、持続可能な社会への転換に必要な意識変革を促すかもしれないのです。サイケデリックには政治的なイデオロギーを超えて、人類共通の課題に取り組む新しい動機を生み出す可能性があるとも言えるでしょう。
さらに、欠かせないのが科学技術の進歩です。fMRIやEEGといったツールによって、サイケデリック体験中の脳活動を客観的に観測できるようになり、主観と科学を結びつけることが可能になりました。特に「デフォルトモードネットワーク」と呼ばれる脳内ネットワークの活動低下が、自我の境界の溶解や創造性の向上と関連していることが明らかになっています。
加えて、人工知能や機械学習の発展により、膨大な脳活動データから新しいパターンを発見できるようになりました。これにより、従来は「主観的すぎる」とされてきた意識体験が、再現性のある科学的研究の対象として変容しつつあるのです。
かくして、1960年代とは異なり、現在のサイケデリック・ルネサンスは科学的エビデンスに基づく医療アプローチとして展開されています。反体制文化ではなく、医療として社会に受け入れられやすい形を取っており、FDA(アメリカ食品医薬品局)は2017年にMDMAを、2018年にシロシビンを「画期的治療薬」に指定しました。
厳格な臨床試験プロトコル、訓練を受けた医療従事者による管理、リスク管理システムの構築など、医療の安全性基準に従った開発が進められています。これは1960年代の使用とは対照的で、社会制度の中に組み込まれた形での「復活」なのです。
こうして見てみると、サイケデリックは「時代の要請」と言えるのかもしれません。社会が閉塞し、従来の方法では解決できない問題が山積する中で、新しい可能性を提示している。医療、文化、社会の枠を超えて広がるこの流れは、21世紀を象徴する変化のひとつになるはずです。
日本でも、この変革の波は静かに始まっています。
しかし、適切な社会実装のためには、私たち一人ひとりが正しい知識を持ち、偏見や誤解を超えた建設的な対話をしていくことが不可欠です。
この連載では、歴史、科学的エビデンス、海外の事例、日本の現状、そして実際の患者さんの声など、多角的な視点からサイケデリック医療を探っていきます。読者の皆さんには、単なる情報の受け手ではなく、この新しい医療の可能性について考え、周囲の人と対話し、社会実装に向けた議論のリーダーとなっていただきたいと考えています。
医療従事者の方も、患者さんやそのご家族も、政策に関わる方も、そして関心を持つすべての方に。私たちが今日学ぶ知識が、明日の医療を変える力になります。
まずは、正しい知識を得ることが社会実装への第一歩です。そして、それを広め、深める担い手になっていただければ幸いです。
さあ、日本におけるサイケデリック医療の未来を、一緒に切り拓いていきましょう。
🔬 未来の実験室
スタートアップや新しい試みを“実験”として取り上げ、未来の断片を観察します。
今回は、先日出版した2冊のKindleに関して、僕なりの視点での発見や気づきについてお届けしたいと思います。
執筆の順番としては、「魂のリハビリ」→「スリランカ考」の順でした。魂本は1週間ごとにその週を振り返りながら、自分の体験を綴っていきました。ですが、途中で、これ以上進めなくなってしまったのです。本来はバリ島に滞在した4週全てを書く予定でしたが、最終週は全く書くことができず、このプロジェクトは一旦途中で放棄となりました。
そして、その後に滞在したスリランカで書き始めたのがスリランカ本です。実際に文章の形にし始めたのはマレーシアに着いてからですが、この時点である程度の構想は自分の中で固まっており、書き始めてしまえば一気に筆が進みました。その上、内容的にも自分的に納得いくものができたと思っていました。
そこで、「余熱調理的」に製作を再開させたのが、魂本でした。とは言いつつ、新たに文章を書いて完成させるには程遠く(←つまり、ここで自分の中の完璧を求めない)、完成度はともあれ、一旦出版まで辿り着くことをゴールにしようと、目標をずらしました。実際読んでいただければわかりますが、ページ数、文字数換算ともに、これまでのどの本より短くなっています。
けれども、どうでしょうか。 蓋を開けてみると、皆さんに好評いただいているのは、スリランカ本より、余熱調理で完成させたはずの魂本だったのです。 結局、僕が「完成」や「完璧」を求めるよりも、実際に読んでいただいて評価をして頂かない限り、結果はわからないのです。
生成AIの台頭により、私たちがアウトプットできるスピードはより早く、表現の幅もこれまで以上に広くなっています。そうなると、質を追求するより、量を追い求めた方が結果的に良いアウトプットにたどり着ける確率が高まるのは目に見えて明らかです。
USBメモリーやイントラネットの企画・開発で知られるビジネスデザイナーの濱口秀司さんも「発想の段階で、質にこだわる=定性管理をすると、前に進めなくなる。まずは、時間を決めたり、数を規定したりする=定量管理が良い」とおっしゃっています。
完璧主義を手放し、まずは世に出すこと。その先で初めて見える景色があるのかもしれません。生成AIという強力な味方を得た今こそ、私たちは「完成」の定義を見直すタイミングに差し掛かっているのでしょう。
もし、世の中に出したいと思っている企画があれば、今すぐ8割の完成度でいいので一旦出してしまいましょう。ブラッシュアップや改善はそれからでいいのです。